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●岐阜新聞 |
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●中日新聞 |
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●中日新聞 |
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●朝雲新聞 |
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●伊奈波神社 会報誌より |
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●中日新聞 中学生の広場より |
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2007.06.21 |
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もっともメダリストとは縁遠い人間が、奇跡を起こしたのかもしれません。まさかこの私が、空手界の頂点に立つとは、誰も想像すら出来なかった事でしょう。
時はさかのぼり1976年6月―。5歳の少女は、暴走するバイクと正面衝突。頭部を強く打ち、全身打撲という重傷を負う。その後4ヶ月の入院、3ヶ月の寝たきり生活を強いられる。
意識障害、発熱、激しく襲う頭痛―。退院後も、後遺症との戦いの日々が始まる。娘の行く末を案じた両親は、身体を鍛える為にと、少女の手を取り空手道場の門を叩いた。それが空手道と少女との、初めての出会いとなった。少女・・・敦子が6歳の時である。
少女時代、運動能力をあからさまにされ、笑い者にされる運動会が大嫌いでした。いつしか私は、恥ずかしい思いをしないよう自分を防御する為に、わざと一生懸命な姿を人に見せなくなりました。
でも唯一空手の技を披露する時は、物珍しさもあったのか周りが私に注目し、正義のヒーローにでもなったような気分を味わえたのです。
空手道の中に、自己表現の場を見つけ成長した私は、稽古を続けるものの少女時代のトラウマからか、一生懸命とはナンセンスだと言わんばかりに、勝負に対する思いをひた隠してきました。有言実行を避けてきたのは、出来なかった時の逃げ道をいつも確保する為だったのです。
勝ちたいと願いつつ、その思いを誰にも打ち明けられず、勝てない時間を過ごす中、私はすでに社会人となっていました。
「変わりたい―。」
その強い思いが、私にある行動を起こさせました。
「私、世界チャンピオンになります!」と、世界一宣言をしてしまったのです。
生まれて初めて大風呂敷を広げてしまった私。それは私にとって、今まさにスカイダイビングをしようとする時のような勇気のいる行動でしたが、自ら一切の逃げ道を絶ったのでした。
誰が予想できたでしょうか、1998年10月、世界空手道選手権大会において、私は正真正銘の「世界チャンピオン」になれたのです。その後、大会史上初4連覇という身に余る栄光を手にする事が出来ました。
遅咲きのチャンピオン― 人は私をそう呼びます。でも適齢期とはただ歳を数えて決めるものではなく、その人自身が何かに気づき行動に起こした時こそが、本当の適齢期である。そして、人と比べて能力が劣っている事は決して恥ではなく、進歩を忘れて変わらない自分こそ恥ずかしいのだという事を、空手道から学びました。「いかにして勝つか―」を求めたはずが、結果的に「いかにして生きるか―」を教えられたのでした。
そして今、講演活動やイベント企画、高齢者向けのCD制作、女性の為のビューティー空手など、空手経験の有無に関わらず、年齢性別関係なく、構えず気取らず誰もが楽しめる新しい空手スタイル「Encouraging(エンカレッジング)空手」を立ち上げ奮闘中。
一人でも多くの人をエンカレッジ(元気づける)できるよう、私自身が元気の発信源になっていきたいと考えています。
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2005.06 伊奈波神社 会報誌より |
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「伊奈波さん」・・・。
私にとって伊奈波さんとは、子供の頃から 慣れ親しんだ言葉です。
私は伊奈波神社の近くで、生まれ育ちました。
出身の小学校校歌の中にも「伊奈波の山の・・・」とあり、事あるごとに口ずさんだものです。またその後進学した中学校名も「伊奈波」でした。
そして、一家揃っての伊奈波さん初詣は毎年恒例のイベントであり、除夜の鐘を聞きながら大勢の人並みで賑わう参道を、新年の抱負を胸に一歩一歩踏みしめながら歩いていました。
その参道を守るように立ち並ぶ木々達が、私はとても好きです。春には優しく桜が咲き誇り、そして新緑が夏を招く。一面の紅葉で秋の気配を感じ、落ち葉が年の瀬を教えてくれました。
いつもこうして伊奈波さんは、四季の訪れをおだやかな心と共に、私に知らせてくれていました。
なぜなのでしょう?私はここに来ると、とてもおだやかな気持ちになれるのです。
今でも時間を見つけては参拝に伺い、心静かに手を合わせお参りをしつつ、自分と向かい合っています。
私は現在、空手道という競技の中に身を置き、日本代表ナショナルチームに所属しています。ここは勝敗という形で、結果が現れる厳しい世界です。
まして日本代表ともなれば、私が出した結果が 日本の威信にまで係わってしまいます。
望んで進んだ道ではありますが、時にプレッシャーや不安から、自分自身を見失いそうな時もありました。
そんな時は決まって私はここに来るのです。
実は正式な参拝作法を私は知りません。
しかし参拝する事によって心が落ち着き、やる気に満ち溢れ、前向きな自分を取り戻すことが出来ました。
初めて全国制覇した「第12回全日本実業団空手道選手権大会」の時も、私はここを訪れていました。
それは今から12年前の11月の事です。
当時日本タイトルを持っていなかった私は、念願の全国制覇を賭け、日々の稽古に励んでいました。
そして、試合開催地の東京へ向かう当日、私は夜明けを待たずに 伊奈波神社に向かい、たった一人の境内で空手の形を奉納形として 演武させて頂きました。
道衣姿と素足の為、11月の寒さが身に染みましたが、それが私の精神を研ぎ澄ましてくれました。
その後迎えた試合では、自分の力を出し切り 初めて念願の日本タイトルを手にする事が出来ました。
その感激は、今でも決して忘れることが出来ません。
それからも国内外を問わず、試合の前後には必ず参拝に訪れています。
また、遠征や合宿で岐阜を離れる事も多いのですが、ここに来ると故郷を感じます。
伊奈波さんとは、私にとってやすらぎの場所・エネルギーチャージの場所であり、私の心の故郷なのかもしれません。
私はきっとこれからも、空手の試合の時のみならず、暮らしの中の自然なものの一つとして、ここに足を運び続ける事でしょう。
自分自身を取り戻し、自分自身と向かい合う為に・・・。
そして、心の故郷に帰る為に・・・。 |
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2003.05.05 中日新聞掲載 |
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私が全日本ナショナルチームに入ったのは社会人になってから23歳の時でした。
今の私から考えれば、「まだまだ青い!!」と言いたいところですが、当時の空手界のエリートといわれる選手は、10代から胸に日の丸を付け、すでにチーム入りを果たしていました。ひたすら稽古に励んではいるものの、一向に結果が伴わず、当時の私は「勝てない選手」として、誰からも注目されることはありませんでした。
私自身もまさか自分が将来、「世界チャンピオン」になってしまうだなんて、想像すらしていませんでした。また学生時代は、とりわけ運動能力に優れていたわけでもありませんでした。
その上、空手を始めたきっかけが、交通事故での後遺症のリハビリというくらいでしたから、とにかく体育に関しては、パッとしない生徒でした。体育祭で人気をさらうスター選手を、本当にうらやましく思ったものです。
「どうせ私なんか」・・・。自信がなく、本当はあふれんばかりの潜在能力に、勝手に見切りを付けていました。
「いえいえ私なんて」・・・。ことを成し遂げられなかった時の逃げ道をいつも用意していました。
その私が今、スポーツの世界で生きている!? 何が私をここまで導いてくれたのか・・・? これぞまさに摩訶不思議!! きっかけを探れば、私の人生を明るく変えたものは、「出会い」だったのではないでしょうか。
これまでの人生の岐路・・・現役を続けるか、引退か、右を行くか、左を行くか。その都度私は、良き「道先案内人」に出会うことができました。勝てなかった当時、卑屈になった私に、何が足りないのかを気づかせてくれた先輩がいたのです。
そして「有言実行」−。
世界を取ると決意した時から、一人でも多くの人に「世界チャンピオンになる!」と宣言しました。それが最初の一歩だったのです。 |
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2003.05.26 中日新聞掲載 |
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「世界チャンピオンになる!!」
宣言をして逃げ道をなくした私は、それからというもの自分で「無理だ!」と思うような練習量をこなすことができるようになりました。
厳しい練習と、金メダルを手にした時の私・・・。 てんびんにかけると、後者にググッと傾くのです。
それまでの私というのは、どうやら目標を実現するための方法を間違っていたようです。これまでも一生懸命練習に励んできたつもりでした。でもその「一生懸命」とは、あくまでも自分の「ものさし」でしかなかったことに気が付きました。 「こうやって頑張っていった先は、あんな私になれていたらイイなあ・・・」ではなく「私はこうなりたいんだ!」と目標設定をした時、そのためには今いったい何をしなければならないのか・・・ということが明確になってきたのです。
世界を目指すのならば、直面しているつらいことも当たり前だ・・・などと思えるようになり、肝がすわったとでもいうのでしょうか。心の中に潜む弱い自分との葛藤は、そんな思いが打ち消してくれました。肝のすわった人間の力のなんとたくましいことでしょう!!
質の良い練習とは時間では計れませんが、それからというものは練習の鬼(!?)と化し、練習三昧の日々。これまではなかなかうまくできなかった技が、砂漠が水を吸うようにみるみるうちに吸収し、身体の中からわき上がる「気」のようなものを感じました。気、元気、やる気、強気、本気・・・、心と身体のバランスの重要性を初めてまじめに考えるようになったのはこの頃からです。
自分自身が新鮮に思え、自分自身に興味がわきました。そうして練習に励み続けた4ヵ月後の1995年4月、それまで幾度となくチャレンジしても叶わなかったこと、ナショナルチーム選考会の合格通知を手にすることができたのです。 |
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2003.06.23 中日新聞掲載 |
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念願のナショナルチーム入りを果たした私は、今まで以上に自信と活気に満ちあふれ…と言いたいところですが、現実は甘くありませんでした。
「これが日本代表チームなんだ!!」と、私はその厳しさに戸惑いました。しっかりトレーニングを積んできたはずなのに、強化合宿ではついていくだけで精いっぱい!!
輝かしくて華々しい日々を想像していた私ですが、顔をしかめるような練習で一日を終え、布団に転がり込むという、それは地味な毎日!!私は何と勝手な想像をしていたのでしょうか、全くお恥ずかしい話です。
当時、女子個人形のナショナルチームには六人選出されていましたが、私はギリギリのラインでの選考でした。目標に掲げた「世界チャンピオン」になるには、国際大会に出場しなければなりません。その国際大会に出るには、まずは六人の中で一番にならなくてはいけないのです。
ナショナルチームに入るため壮絶な生存競争をしたばかりなのに、生き残り競争はその先にもあったのです。当時の私は国際大会に何の経験も知識もなく、気負いすぎて空回りばかり!!周囲には随分こっけいに映ったことでしょうね(笑)。
「時間はすべて空手のためにある!」「空手のために息をして、食べて、寝よう!!」など、少し危ない(!?)ですが、ちょっと偏ってしまった時期かもしれません。でも、恥ずかしい気持ちはありませんでした。
その頃の私は、試合に勝てなかったそれまでの自分を、どうでもよく思えてきていました。それはある感情がわいてきたからです。「最も恥ずべきことは、きのうより進んでいない自分…。一時間前より…、一分前より…、進めない自分なのだ」と。たとえどんな大きなことを成し遂げようとするにも、それは、ほんの小さなことからの積み重ねと私は知ったのです。 |
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2003.07.21 中日新聞掲載 |
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世界を目指そうとした時、私にはこれまで以上に「時間」が必要となりました。それは余暇ではなく、納得できるまでの練習時間のことです。
1992年、普通にOLとして企業に入社し、仕事を任されていました。そうなると、どうしても練習時間の確保が難しく、その上本格的に実業団として活動していなかった勤務先には、練習場所などありませんでした。
私は、この状況をとても不幸なことだと思っていました。時間さえあれば…、道場さえあれば…。ただ求めるばかりで、自分自身の力で前進していく必要性に気が付いていなかったのです。
そんな気持ちをくすぶらせたまま一方的に求めても、何も変わるはずがありません。行動のないところに結果は生まれないと知った私は、邪心を一掃し、何事も自分から動くことにしたのです。
時間は自分でつくり出すものなのでした。ランニング通勤も、練習の一環です。そしてデスク下でのダンベル・チューブのトレーニング。就寝前にもイメージトレーニングができます。
それからというもの、私の道場は「玄関先の道路」だったり、「公園」だったり、「長良川堤防」だったりと、私が立つところが、まさに道場そのものと化しました。世界制覇のために必要な、本当の意味での「時間」と「空間」を私は手に入れました。
私を取り巻く環境が、少しずつ変化していきました。勤務先からは公式に練習時間を与えられ、練習場所に利用していた資材倉庫は「本物の道場!!」に生まれ変わりました。それも社員の声援をいっぱいに受けて…。
環境は人を育てます。ですが、その「人」が環境をつくるのだと痛切に感じました。やる気のあることに心強い環境が整いました。さあ、いよいよ世界に向かって、本格的に出陣です!! |
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2003.08.18 中日新聞掲載 |
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私が初めて国際大会を経験したのは、1995年10月にドイツで開催された「ワールドカップ」でした。私たちの所属する全日本空手道連盟は世界空手道連盟(WKF)の傘下にあり、加盟国は現在164。そのWKFが主催する大会のひとつがこの試合でした。
私のことを空手界では、国際大会初出場・初優勝と思われている方もいるようですが、実際はそうではありませんでした。当時、この大会の日本代表枠は二席あり、その枠をめぐる代表選手選考会が8月の強化合宿中に行われました。実は同じ年の7月にレディースカップという国際大会があり、私は選考に漏れていたのです。一ヵ月後には、選手の入れ替えで選ばれたというわけです。
私はそのとき、喜びと同時に勝負の世界の非情を感じました。もしこのワールドカップで期待通りの結果を残さなければ、きっと私は監督・コーチに見捨てられてしまう。経験だけを積ませるために選ばれたわけではない。私には後がない!!自分自身を窮地に追い込んでしまいました。
私は、今まで味わったことのないプレッシャーを経験したのです。偏頭痛・微熱などで眠れない夜が続き、精神面がこんなに体調にも影響してしまうことを、嫌と言うほど知らされました。
また、海外試合に関する知識を持ち合わせておらず不安ばかりなのに、周囲の期待の大きさは、想像を越えたものでした。今さら後にも引けず、これまで以上に孤独と戦わなければならなくなりました。
試合のコートに立つ時、そこにはこれから戦う相手がいます。でもその前に、まず弱い自分との戦いをしなけれはいけません。最初の敵は「自分自身の中」にあったのだと、私はそのことに気付いたのでした。 |
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2003.09.08 中日新聞掲載 |
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初めての国際大会、初めて訪れたドイツ、初めて味わったプレッシャー…。結局、私はワールドカップの優勝を逃し、成績は準優勝となりました。初出場で第二位。一見、好成績のようにも思えますが、伝統を守らなければならない空手発祥の国・日本にとっては、許されないことなのです。それも「辛うじての二位」でした。
当時の形競技ルールは点数制で、準優勝から同点のイタリアと決勝戦で競い、ようやく二位にたどり着いたという苦戦を強いられました。試合後の私には達成感のかけらもなく、残ったのは疲労と悔しさだけでした。こんなはずではなかった、負けるはずがなかった…。可能な限りのものを空手に費やしてきたのに、これ以上どうすればいいのか?悶々(もんもん)とした心の中で、自分に不足している所を省みず、評価に対して不満ばかりを抱き、本来、夢を描いて明るく生きるためのきっかけとなるはずの空手が、我欲のために自分を醜くする空手になっていました。
試合に勝ちたい一心で、外国でも通用するとうにと体力を付け、身体づくりをし、身のこなしや筋肉・関節の使い方など、技を覚え磨いてきたつもりでした。なぜ私は世界に通用しなかったのか、私に足りなかったものは何だったのか…。そう思い返すと、自分に備わっていなかったものは、「心」だったのではないかと感じられてきたのです。
よく昔から「心・技・体」といわれていますが、私は体力の過信、そして技術のみに集中し、私自身をつかさどる「心」がその「体」と「技」に伴っていなかったのです。心が技の表情をも変えてしまう事に、気が付きませんでした。強ければ勝てる。そう信じていましたが、それだけではないことを、この試合は私に教えてくれたのです。 |
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2003.09.29 中日新聞掲載 |
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「心」が技の表情をつくる。勝っていくためには、これはとても重要なポイントでした。空手道競技の「形」とは、四方八方に多数の敵がいると仮定し、その攻防の手順を一連の流れとして表現したものであり、「決められたカタチ」とされてはいますが、演武する人の心までを規定しているわけではありません。
例えば、画家が風景や物象を単に美しく描くだけではなく、描く人の心を通わせて、内に秘められている真実性を描き出していくように、形もそれぞれの人間性の中で、自分自身と向かいあって表現していくわけです。楽しいことを考えると自然に顔はほころび、怒りを抱くと自然に眉間(みけん)にしわが寄りますが、感情が身体を変化させていくのならば、いつも健全な心を持っていられように心がけていく必要性を感じました。
「形」を演武するということは人間性の表現でもあり、豊かな心をつくり上げていくことだと分かったのです。私が今、修練している「形」に必要なものは、力やスピードだけではないことを知り、心のあり方について真剣に考えました。相手や敵を倒したいという一心で、攻撃的であった私が、自分自身の心を省みるようになりました。
「あなたにとって空手とは」とよく尋ねられますが、「自己表現・自己啓発の場です」と答えるようになったのは、この頃からだったと思います。私自身を成長させなければ、人の心を魅了し感動してもらえる演武は出来ない、心を技に乗せるには、心を技で伝えるには…。教習本やビデオなどでは見えない、「カタチ」としては目に見えない、漠然とした課題が生まれました。
「カタチ」で覚えられないものは、成果や結果も「カタチ」として現れにくく、停滞しているかのようにも感じましたが、ここはグッと「忍」の一字でした。 |
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2003.10.20 中日新聞掲載 |
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初めて経験した国際大会・ワールドカップは、優勝こそ逃してしまいましたが、私に大切な軌跡を残し、行くべき方向性をしっかりと示してくれました。志は高く、顔を上げ視点を定め、その方向に真っすぐに突き進む。もう私は、すっかり空手のとりこになっていました。
これまでのナショナルチーム選考会やワールドカップのときは、「私にはもう後がないんだ!」などと年齢にこだわっていました。でももう、いくつになったのかも忘れてしまうくらいにどうでもよくなり、その時々、その一瞬一瞬に、これまでに味わったことのない生き生きとしたものが自分の中からわき出してきました。
自分自身が何かに目覚めて行動に移した時が、本当の適齢期であることに気付きました。世間一般に言われているように決して年齢で決めるのではなく、私は私の適齢期を追って行こうと決めました。長い間、勝てなかった暗い時代、時間との闘いだったOL生活、遅咲きといわれたナショナルチーム入り…、すべてが遠回りのようで、実はこれが一番の近道だったのでしょう。自然にそう思えてきました。
今、私に起こりうる現実の中に、今だからこそ学ばなければならないものがきっとあるはず・・・そう考えられるようになったのです。目標までの距離を知る感覚も麻痺していたのでしょうか、いまだ、この手に握りしめることのなかった「金メダル」を思いながら、私は世界チャンピオンになるという夢に、ただ漠然とした自信と手応えを感じていました。
その時は、勘違いだったのかもしれません。でも勘違いから始まる誠、うそから出た誠もあるという事を、この後に身をもって知ったのでした。 |
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2003.11.17 中日新聞掲載 |
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世界に挑戦する切符を再度手にしたのは初めての国際大会・ワールドカップから二年後の1997年でした。その背景は、当時日本のエースとして戦っていた先輩が、けがのため第一線を退いて指定席といわれていた枠が空き、そこに私が入り込んだというわけです。
私はワールドカップで世界の怖さを知っているだけに、ただ単に日本代表を喜ぶわけにはいきませんでした。まして、これから挑もうとする試合は「東京世界女子選手権」。戦いの舞台は日本だったのです。海外選手と比べると、時差や環境面から見ても、私達が断然有利なのは分かっていましたが、開催国選手としての周囲の期待を吸い込みすぎて、両足に鉛でも付けられたかのように、体が重くなっていくような気がしました。
これまでの国際大会で、私の出場する種目「女子形」では、一度も王座を他国に譲ったことがありません。日本がこれまで培ってきた伝統を守らなければなりません。代表選手選考会では、コーチに「日本代表として出場した以上、優勝しかない。もしできなければ、その伝統もあなたの代で終わると思いなさい。それが苦しいのなら、選考会を辞退しなさい」。そう言われていました。
厳しいようですが、これは一個人の話ではなく国対国の戦いですから、当然といえば当然なのです。前回世界に挑戦した時の私は世界一という自分の夢のことばかりでいっぱいでしたが、さすがに今回は自覚が芽生え、「日本代表の責任=私の夢」となっていました。日本人らしく勝つ。伝統のプレッシャーは私に覆いかぶさり心を支配しました。怖い、怖い…。いつの間に私はこんなに臆病になってしまったのか?
向こう見ずでただ漠然と世界を目指していた私は一体どこへ行ってしまったのか?そんな私を知るよしもなく勝負の時は刻一刻と近づいてきました。 |
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2003.12.08 中日新聞掲載 |
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選手村の東京のホテルに乗り込む前日、原因はほんの些細なことだったのですが、私は怒りの感情を抑えきれず自分を見失っていました。
感情は競技に影響し、その感情のコントロール、いわゆる自己管理のできる者が試合に勝つことができる。これまでの経験から、そう悟っていたつもりの私でした。プレッシャーやストレスのせいか、私は異常にいらだっていたのです。ずっと抑えてきた感情が、ちょっとしたきっかけから吹き出してしまいました。
取り乱している自分自身に驚き、こんなことをしていてはいけないという思いから、さらにパニックに陥ってしまいました。これが、これから世界を目指そうとする人間のすることか…。何とぶざまだと、情けなくて涙が止まりませんでした。
涙ではれた顔を人に見られたくなくて、人通りの少なかった夜、岐阜での最終練習のため会社の道場へ向かいました。
すると、その日は練習日ではないはずなのに、道場に明かりがともっていました。そっと扉を開けてみると、そこにいたのは、ペンキで体中汚れた姉と後輩たちでした。
みんな、私の顔を見るなり慌てた様子で、「見つかった!」と恥ずかしそうにほほえんでくれました。私に内緒で会場に揚げる垂れ幕を作ってくれていたのです。垂れ幕には「かなえよ夢」と書かれていました。私はまた涙があふれてきましたが、今度は涙を隠し、ほほえみ返して「ありがとう」と伝え、そのまま道場を後にしました。
帰宅の車で、フロントガラスが見えなくなるほど泣いていました。私が自分自身を信じられなくて泣いていた時も、私をひたすら信じて疑わず、ともに戦ってくれている人がいた。私は独りじゃないんだ!!プレッシャーというよろいが取れて、体が軽くなっていく気がしました。 |
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2004.01.19 中日新聞掲載 |
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揺れ動いていた複雑な思いを整理し、私は岐阜を後にしました。向かう先は「東京世界女子選手権大会」の決戦の地。戦いの日を目の前にして、不安や緊張をまぎらわせるために、練習の中にさらなる厳しさを求め、するべきことはしてきたはずなのに、まだ不足しているのではないだろうかと悔いる自分がいました。
しかし日本チームと合流すると、そう思っているのは私だけではないことが分かりました。日本代表選手の中では私が一番年上なのですが、この大会では一番新人でした。年は若くてもベテラン選手もおり、経験不足の私がチームの足を引っ張っているのではないかと心配していましたが、実際にはそれぞれの選手が私と同様に不安と戦っていたのでした。
食欲のなくなる者、体調を壊す者、不眠…。私たちはお互いに声を掛け励まし合い、試合当日までの約一週間を選手村のホテルで寝食を共にしました。そこにはまるで家族や姉妹のような連帯感が生まれ、仲間たちがとても心強い存在となっていきました。普段は皆、優しくて明るい子たちばかりです。試合中に見せる表情とは似ても似つかないほどです。
でも試合本番になると、きちんと気持ちを切り替えて、恐怖心を打ち消し勇敢に華麗に戦う彼女たちに、年下ながらも尊敬の念を抱き、その姿から多くを学びました。「よし私も!道衣をきて帯びを締めたら強い私になるんだ」と自分に暗示をかけ、ホテルではイメージトレーニングをして、自由自在に体を操り技を極めていく自分だけでなく、優勝する姿もリアルに思い描きました。
会場には歓声の中、日の丸が揚がり、そして君が代が流れ私の胸には金色に輝くメダル−。そうして毎夜毎夜、指折り数えて決勝の日を待ったのでした。 |
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2004.02.16 中日新聞掲載 |
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「第二回東京世界女子空手道選手権大会」の決勝の日は、1997年7月12、13日の両日でした。代々木第二体育館には26ヶ国から、総勢160人の“アマゾネス”たちが集結しました。それを迎え撃つ大和なでしこ10人は、黒帯を引き締め直して自分の出番を待っていました。
私の出場する個人・形は2日目。初日は仲間をサポートする側に回り、タオルとスポーツドリンクを預かって、何人もの選手をコートわきから送り出し声援を送り続けました。間近で見る白熱した戦い。組手の選手は何度コートに倒れ込んでもまた立ち上がりました。ルールではコントロールされていない打撃は反則となります。明らかに相手側のミスでもその反則ポイントには頼らず、倒されても鋭いまなざしで相手を捕らえてあきらめず、常に攻撃の構えを忘れていないのでした。
その姿は女性という枠を超え、とても美しく、化粧や宝石で表面を着飾ったようなたぐいではなく、まさに華麗そのものでした。何がこんなに人を夢中にさせるのだろうかと不思議でした。一生懸命になっている姿は、感動を与えてくれます。私はこれから戦うのに必要なたくさんの勇気を、その姿からもらいました。「早く試合したい!」。あとはどうなっても構わないという心境で、気弱で不安な私は、もうどこにもいませんでした。
初日を終えて戻ったホテルでは、優勝を勝ち取った者、惜しくも優勝を逃した者、それぞれ戦い抜いた精鋭たちの健闘をたたえ、その勢いを2日目の選手が受け継ぎました。部屋に戻った私は、いつもの自分ではないかのように、なぜか落ち着いていたのです。
「次に目が覚めた時は本番だ。明日の今ごろはもう結果が出ている」。試合当日まであと1日。初めて世界制覇に挑んだワールドカップから、2年の歳月が流れていました。今度こそきっと…。私は静かにベッドで目を閉じました。 |
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2004.03.08 中日新聞掲載 |
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七月十三日。まるで夜がなかったかのように、私は朝を迎えました。
「とうとう来たか・・・」。
心でつぶやきながら早々と身支度を始め、会場へ向かいました。プログラムでは私の第一回戦は午前十時から。これに合わせ、決勝戦まで勝ち上がることを想定したシミュレーションの練習を、何日も積んできました。
しかし予定は大幅に変更され、選手たちは召集場で連絡を待つことになりました。調整の結果、種目順が入れ替えとなり、私の出る個人形種目は昼食・アトラクションを挟んで予定より三時間遅れるとのことでした。
私たちは予定時刻に合わせてウォーミングアップをし、テンションを高めていたため、選手の中には不満の声を上げる者もいました。でも、私はすぐさま手持ちの時計を三時間遅らせたのです。「動揺することはない。予定通りなんだ」と言い聞かせながら−。
それからは、体を冷やさないように上着を羽織り、すぐに練習会場に移動しました。そして午後一時、第一回戦の開始です。私は朝の試合に臨むかのように、待ちくたびれることもなく挑むことができました。試合は一回戦で上位十六人、二回戦で八人に絞られます。私は順調に勝ち上がり、決勝戦となる第三回戦を残すのみとなりました。
私は試合の前にもかかわらず、胸に熱いものがこみ上げてきました。こんなことは初めてでした。念願の世界タイトルまで、あと一歩。演武の順番を待つ間、私の脳裏には、これまでの出来事が走馬灯のごとくよみがえってきたのです。
勝てなかった時代の自分、支えてくださった人たちの顔、惜しみなく情熱を注いでくださった先生、そして見守ってくれた家族。込み上げる涙を感謝の気持ちを胸に留め、形の一挙一動、一拳一足に心を込め、得意形のスーパーリンペイに命を吹き込んだのでした。 |
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2004.04.05 中日新聞掲載 |
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演武中、静止した世界の中で時を刻むのは私だけのような錯覚を覚えました。それはまるで、水の中で自分自身を感じることに似ていました。次から次へと技を繰り出していくとき「ここで強く、ここは柔らかく、脇をしぼって・・・」などと、そこに意識と自己はあるのですが、その場そのときで自己完結していました。
自分の身体の感覚も周囲の様子も分かっていましたが、意識がそこに停滞することはなく、よどみなく流れていくようでした。思い描いたように技が出せたとすれば、理想とする形ができるのでしょうが、たとえその技の一つができなかったとしても、そこに心の滞りはないのです。
私はそのとき、スーパーリンペイと一つになりました。演武後、深々と納めの礼をして、静かに判定を待ちました。主審の合図でたたき出された点数は「43.5点」。その時点で私は首位に立っていました。それからも試合は続き、最後の演武者の判定が出たその瞬間、私の優勝が決まりました。初めて自分に向けられた歓声、優勝を告げる場内アナウンス。何もかもが夢のようでした。そして私は「これはリレーだ」と、ふとそんなことを思ったのでした。一人のチャンピオンを生み出すために、どれだけの人の手を経るのだろうと。私をチャンピオンにしようと人から人へ大切にバトンが受け継がれ、それを引き継いでアンカーとして最後の一周を走ったのが私だっただけのこと。
初めて立った一番高い表彰台は、一人ではありませんでした。一緒に戦ってくださった方々が心にいたからです。心からありがとう、本当にありがとうと繰り返し、私は金メダルにキスをしました。金色のメダルは美しく輝きます。しかし、この試合は私に、もっと輝く「希望と勇気」を与えてくれました。その光は、七年たった今でも私の胸に輝き続けています。きっと、それからもずっと。 |
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